2011/07
臨床医学の伝授者 ポンペ君川 治


[日本の近代化と外国人 シリーズ 7]



 梅雨の中休みの1日、長崎を訪れた。長崎大学医学部正門を入ると、白亜の瀟洒な良順会館が右手にあり、正面は煉瓦壁のポンペ会館、左手に鉄筋の基礎研究棟がある。ポンペ会館は医学部創立130周年・原爆復興40周年を記念して平成4年に建設された。創立150周年記念として建設された良順会館は、正面にポンペ、ボードイン、松本良順、長与専斎の4人の賢人レリーフがあり、150周年ミュージアムには医学伝習所のポンペや松本良順などの歴史資料が展示され、自由に見学できた。
 基礎研究棟を入ると壁面にポンペ・ファン・メーデルフォールトの顕彰レリーフ(写真)があり、ポンペの言葉が記されている。『医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい』と。

 長崎医科大学は浦上の爆心地から僅か600m、ここに悼ましい碑もある。
 1945年8月9日に投下された原子爆弾により、教授・教官44名、学生537名、看護婦・看護学生109名、事務職員207名の合計897名が犠牲となり、附属病院患者約200名も犠牲となっている。

臨床医学の伝授者
ポンペ・ファン・メーデルフォールト

 我が国に西洋医学を伝えた人としては、幕末のオランダ商館医シーボルト(1796−1866)、ボードウィン(1820−1885)、維新後の東京医学校教授ベルツ(1849−1913)など多くが挙げられるが、ポンぺ・ファン・メーデルフォールト(1829−1908)もその一人である。
 ポンペはオランダ陸軍士官の子として南オランダで生まれた。17才でウトレヒト陸軍軍医学校に入学、1849年に卒業して三等軍医となり東インド、ニューギニア、スマトラに勤務する。1855年に陸軍外科試験に合格して二等軍医となり、第2次長崎海軍伝習隊の医員に選抜される。
 カッテンデーケ伝習隊長らと共に1857年に長崎に来たポンペは、前任のオランダ商館医の帰国に伴って、オランダ商館医と第2次長崎海軍伝習所教官を兼務する。更に幕府の依頼で医学伝習所が開設され、医学校教官も兼務することとなる。ちなみにカッテンデーケはその後オランダ海軍大臣になり、オランダ留学した榎本武揚や赤松則良らが世話になっている。
 医学伝習所は、海軍伝習所と同じく長崎奉行所西役所に設けられた。伝習生は松本良順ら14名。当初はオランダ語を理解できるのは良順のみで、オランダ通詞も医学用語に精通しておらず、苦難のスタートであった。講座は午前と午後の1回ずつで、物理学・化学の基礎から、病理学総論・病理治療学、生理学総論、内科学、外科学、眼科学、更には解剖学、包帯学、調剤学、法医学、医事法制まで及ぶ幅広い教育が展開された。
 学生が増えて手狭になった医学伝習所は長崎町年寄高島秋帆の屋敷を借り受けて大村町に移転し、更に病院建設を幕府に依頼して1861年に長崎養生所が設立された。
 養生所は病院と医学所からなり、病院は病棟2棟(8室)、手術室(4室)、隔離患者室、運動室(リハビリ用)、当直医室、料理室、薬品・機械類・図書・備品室、浴室などの設備があり、医学所は教室、ポンペ在勤室、寄宿舎があった。これが我が国臨床医学の始まりである。基礎医学と臨床医学を教える長崎養生所は1868年に長崎府医学校、1871年に長崎医学校となり、長崎医科大学を経て長崎大学医学部へと継承されている。

 医学伝習所は松本良順、司馬凌海、山口舜海(佐藤尚中)、長与専斎など明治初期の西洋医学者を育成している。
 松本良順は佐倉順天堂の佐藤泰然の次男として生まれ、幕医松本良甫の養子となり、長崎でポンペに西洋医学を学んだ。1861年に養生所が設立されると良順が頭取を務めた。1862年にポンペが帰国する時には医学生は60人以上に達していた。1863年に江戸に戻って幕府の西洋医学所頭取となり、戊辰戦争では会津城内に病院を開設して負傷者の治療にあたった。維新政府に投獄されるが、やがて維新政府の軍医に復活して初代軍医総監となる。
 長与専斎は大村藩の出身で、大坂の緒方洪庵の適塾で学び、洪庵の勧めで長崎に留学してポンペの医学伝習所で学んだ。良順の後を受けて長崎医学校校長となり、維新政府では岩倉使節団に加わって欧米の医事制度を調査し、帰国後は東京医学校長や内務省衛生局長などを歴任した。
 山口舜海は小見川藩医山口甫僊の次男として1827年に生まれ、江戸で蘭方医学を学ぶ。佐藤泰然の順天堂で学んだ後、長崎の医学伝習所でポンペの指導を受ける。江戸に戻り、佐藤泰然の養子佐藤尚中となり、1869年に大学東校(後の東京大学医学部)初代校長となり、1875年に湯島に順天堂病院を開設して初代院長となる。
 司馬凌海は1840年佐渡の生まれ、江戸へ出て幕府医官松本良甫、良順にオランダ語と蘭方医学を学び、良順に同行して医学伝習所で学ぶ。その後、東京医学校教授、愛知医学校(後の名古屋大学医学部)教授などを務めるが、40才の若さで亡くなっている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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